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脱!!無気力/かつて好きだったものを思い出す

【沼を出たい】


ここ数年、無趣味だった。


趣味はと聞かれたら「旅」とか「映画」とか一応は言うけれど(この二つ、いかにも格好良く響くんだよね、、、)どれもかつての自分が好きだったもの。

既に飽きている。

何もしない休日も好きだけど、何か打ち込めるものがあるときの自分の獅子っぷりをよく知っているだけに、内心すごく焦っていた。

何が焦るって、打ち込めるものがないからではない。

好奇心やエネルギーがなく、もの凄く無気力だったからだ。

沼にハマったような気分だった。


しかし最近、久しぶりに好き!ワクワク!という感覚を味わう出来事があった。

 

 


私の場合、服、ファッション だった。

 

 

【服を買うことへの罪悪感とブロック】


思えば昔から服が大好きだった。


小学校4年生くらいからファッション雑誌を毎月買って、

何が流行っているかチェックしていた。

母親に買い物に連れて行かれては、真剣に服を探した。

高校のときは服飾の専門学校に進学したいと思っていた。

 

ファッションはずっと私にとって気になるものだったのに、

なんで今の今までそれが意識からこぼれ落ちてしまっていたんだろう?

 


思えば大人になってから服を買いに行くとき、いつも自分の中がざわついていた。

「本当に買っていいんだろうか?」

と。


子どもの頃、母親と服を選びに行くと、いつも言われていたことがある。


「すぐ着れなくなる、勿体ない」

「○○(家族)の服を買うお金がなくなる」


それでいつも一番欲しいものをガマンしていた。



服飾系に進学したいと親に伝えたときにも言われた。

「そんなの勉強したって仕事にならない。学費も高い。国公立に行きなさい」

それで受験して大学に行った。

この一連の流れでいつしか服が好きであることに対して罪悪感を感じるようになってしまった。

 

——お金のムダになるんじゃないか。

——これを買ったところでどうにもならないんじゃないか。

——好きだからといって、将来に結びつかないんじゃないか。



好きなことなのにいつも罪悪感が伴っていたので、純粋なワクワク感は全然感じられなかった。これは本当に悲しいことだった。



大学に合格したときに、たいそう喜んだ母親は私をデパートに連れて行って、

「いくらでも好きなものを選びなさい」

と言ってくれた。

母親は、相当テンションが上がっていたのだろう、CELINEのジャケットを手に取って私に勧めた。


(↑金銭感覚が極端な人って怖い………遺伝したけどwww)


そんなの、自分のせいで家計が傾くとしか思えなくて罪悪感しかなくて、絶対に買ってもらってはいけないと、断固拒否した。


結局その日私が選んだ(かろうじて選べた)のはカーデ1着だけだった。


*補足*

私は子どもの頃から家が相当な貧乏だと思っていた。
子どもの頃、自分が服(¥1980とかの子供服)を欲しがったときの母親の反応を見て、一着買うと路頭に迷うくらいの貧乏だと。でもこのCELINE事件でウチってもしかして貧乏ではないのでは…?と気付き始めた。
その後、両親が裏で株やってることが判明!!!!
あのときCELINE買ってもらってたらよかったです、ホント。


自分でお金を稼げるようになって、少しずつ自分の心のことがわかるようになって、もう今は不要な罪悪感を抱え込んでいることがわかって、私はそれとずっと向き合い続けてきた。


最近やっと、それを打ち壊せた気がした。



【「好き」をお金に置き換えない】


先日幼なじみとショッピングに行ったとき、「このお店が自分のクローゼットだったらいいのに!」というくらい素敵なヴィンテージショップに入った。

その子も服が好きな子だったので二人ともテンションが上がり、二人で各々が値札を見ずにただ素敵だと思うものを片っ端から試していった。

 

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↑ヴィンテージの名品。やっぱりルブタンは格好良かった。ガツンとやられた。


実用性も着回しも何も考えずに、心ときめくものを探した。

私はシルクのワンピースと8cmのヒールをポンと買った。


どちらも、今の私の暮らしや仕事を考えたらまぁ実用性がない。

登場回数は少ないかも知れない。


でも、それを試着したときの鏡の中の自分がとても素敵だったのだ。

 

自分のためだけに、「素敵!」と思う一瞬の高揚感に対してお金を遣った。自分史上サイコーに鮮やかで、晴れ晴れする買い物だった。

 

そのときわかった。


「好き」はただただ自分を喜ばせるもの。


将来性も実用性も意味も何もない。


ただただ喜びと楽しみが得られる感覚だ。

 


その感覚を、

損得勘定にかけたり他人のものさしで計ったりせず、

 

思う存分、体全体で、味わって楽しめばいいのだ。


ときには他人から同意を得られなかったり、止められたり、

自分の中のいろんな思考がブレーキをかけたりもするけれど、

自分の中で湧き上がる一瞬の高揚は何よりも価値がある。

そしてその至上の価値を体験できるのは自分だけ。

それを自分で守り抜くのだ。


茨木のり子の詩にもある。

 

自分の感受性くらい自分で守れ。

 

そこに理由や言い訳なんか引っ付けなくて良くて、「感じたこと」が全ての世界なのだ。


***


こうして私は服への情熱を一度は他人に明け渡してしまったけれど、ワンピとヒールの買い物で取り戻すことができた。


これから、膨大な時間とエネルギーとお金をそこに流し込んでいくことでしょう。


自分自身のために。

喜びを感じられる生のために。