弱い私も、責める私も、全部尊き私。
大人になってからも私はずっと、心の中に弱さを、恐れを、ずっと抱いて生きてきた。
ずっと気づかなかった(無意識的に気づかないふりをしていた)けど、外的トラブルに直面するたびに私は、子どもの頃のまま何も変わっていない、無力な自分を内側に感じ続けてきた。
でも、それでは生きていけない。
社会で生きていけない。
そう感じていたので、強がった。
強い自分であろうとした。
自分は強くなったのだと思っていた。
そして同時に、弱い自分に蓋をして、弱さや恐れを抹殺しようとしてきた。
でもそれはいつまでもなくならなかった。
無理が生じてものすごく苦しくなった。
心の中に潜んでいた小さな自分が丸裸になったようで、家から一歩も出たくない日もあった。
一体どっちも自分が本当の自分なのか、わからなくなった。
地に足がついていないような、糸の切れた凧のような、グラグラフワフワして、自分は果たしてここに居てもいいのか?
真剣に悩んだ。
今ならわかる。
どれが間違いでどれが正しいとかではない。
どれもただありのままの自分だったのだ。
怯えて震えて小さくなっている自分も。
そんな自分を責めているもう一人の自分も。
そして、その両極の間で身動きがとれなくなっている自分も。
一見ネガティブな存在にみえるそれらには全て、美しき意図があったのだ。
恐れは自分を守るための、生物として正常な反応。
それを見逃すことができない正直さ。
そんな自分を外の世界から守ろうとして強くありたいと思う、正義感。
その両者を見て、どちらの思いも捨てきれない優しさ。
ハタから見てどんなにみっともなくても、
それらには尊く美しき意図があったのだ。
到底諦めることができない強い思いがあったのだ。
やっと、それを感じることができた。
どんな自分も認めて抱きしめることができた。
そうしたら、みんな「成仏」した。
変わりたいと望むのにいつまでたっても変われないとき、それは意志が弱いからではないのだと思う。
むしろ強い意志があるのだ。
諦められない、手放しがたい意図があるのだ。
それを心底認めることができたとき、やっと人は選択することができる。
どういうふうに生きていこう?
どういう自分でありたい?
あるいは、もうそのときには既に問題が問題ではなくなっているかも知れない。
あんなに頭を悩ませていたのに、不思議だね^^
変わるということは苦行の中で起こることでもない。
ふっと力が抜けた時、変化への流れが穏やかに生じるものなのだ。