私たちはみんな泉。本来豊かで、毎日新しくなっている存在。
先日パートナーと旅行に行った。
日々のあれこれにまみれてぐちゃぐちゃになっている私を見かねて、パートナーが提案してくれたのだった。
私の心は自分で思っているより疲れていたのか、
感覚が訪れるのが一拍遅いような鈍いような、ずっとぼーっと過ごしていた。
まぁ、そんなときもあるわ。
途中で温泉に立ち寄って、彼は男湯に、私は女湯に入った。
一人でぼーーっと露天風呂に浸かっていた。
露天風呂の脇に設置されているお湯が湧き出ているところを無心でぼーっと眺めていた。
絶えることなくじゃんじゃん温かいお湯が出てくる。
そのときにふとひらめいたことがあった。
「私たちはみんな泉」
「みんな泉を持っている」
ということ。
その泉に目を向けるということ。
それは、とても大切だということ。
泉があるということを忘れてはいけないということ。
というか、どれだけ忘れていようとも、
私たちの中には泉からこんこんと湧き出るものが事実あるのだということ。
そう感じたのだ。
***
どういうことかというと、
私たちはいつも絶え間なく何かを感じ取っている。
それは熱いだったり冷たいだったり、腹減った、痛い、とか、楽しい、悲しい、腹が立つ、切ないとか。
毎瞬毎瞬何かが心に映し出されているのだ。
でも、それが心に起こった瞬間、最初それは言葉を持たない。
なんかふわっとした、重いような軽いような、色がついているような、曖昧なものだ。
私たちはそこに後から名前を付ける。
これは「熱い」これは「楽しい」とか。
そして「そのもの」に名前がついたそばから、
泉はじゃんじゃん別の新しいものを生み出しているのだ。
何が言いたいのかというと、
名前がついたものはもう古いものだ。
悲しいとか楽しいとか、辛かったとか腹が立ったとか、もう全部、古いのだ。
終わったことだ。
手放してもいいものだ。
それを手放さずに持っている間、
私たちは自分の中の泉のことを忘れてしまう。
私たちは日々進化している。新しくなる。
それが一見建設的に見えないとしても、毎瞬毎瞬、ある方向に向かって変化している。
それは生物として生まれた時からプログラミングされていることなのだ。
その力が私たちには備わっているのだ。
***
・・・と、いうことを、温泉の中でひらめいた。
あぁそうか、そうなんだ。と、一人勝手に腑に落ちた。
そして、古いものに時間をとっている場合じゃないんだな、と理解した。
私は悲しかった。腹が立った。疲れた。
そうかも知れない。
では今は?
今この瞬間の私の心の模様は?
そこに意識を向けること。
できる限り毎瞬毎瞬、自分に問いかけてみること。
向ければ向ける程、感覚は澄んでいく気がする。
そして、自分とより仲良くなれる気がする。