しんどい家庭で育つということと、その意味。
先日、知り合いの女性Mさんと話をしていたときのこと。
ふと彼女の家族の話になった。
Mさんの親は鬱を患っており、経済的にも精神的にも彼女が家族を支えているということだった。
Mさんはまだ若くてとても明るく、そういう”重さ”とは無縁だと思っていたからびっくり。君もそうなのか、と思った。
大人になってからわかったことだけれど、家族の問題を抱えている人って本当に多いみたいだ。しんどいのは自分ばかりだとずっと思っていた。子どもの頃訪ねた友人たちの家は皆幸せそうだったから。
***
たまに、”家族から存分に愛されて育った人”にお目にかかることがある。
人から受け容れられることに疑いなんて持たず、目の前の人を愛し、心身ともに善きことに向かっている、そう思える人。
以前はそういう人を見ると嫉妬した。そして自分の家族を呪った。
生育環境が違えばこんなに違う。私はあんな家族の元で育ちたくなかった。こんなの不公平だ。私こんなに頑張ってるのに。
人は生まれた直後からしばらくの期間の生育環境について、選択の余地がない。既に用意された環境やシステムの中で世話をされ、教育を受け、成長することになる。
やがて大人になり、そのときやっと、そこに至るまでに習得した事物の手放しや書き換えができるようになる。
最初に完全な受動期間があって、過去の捉え直し作業を経て、能動的な生に移行してゆく。
この一連の流れは、どんな環境で生きてきたとしても皆共通していることだ。
生育環境が大変だった人は、過去の捉え直し作業はそれだけ大変になることが多い。
…ちょっと小難しい言い回しになってしまいました。
***
私は30歳を前にして、自分が育ってきた家庭の特殊さに気づいた。そこから親とぶつかり、初めて人間同士の対話を試みた。でも、未だにわかり合えていない部分は多々ある。まだまだ現在進行形です。
そんな私の現時点での結論。
しんどい家庭で育つことによって、人は無償の愛を学ぶのだ。
結論というか祈りに近いものなのだけれど。
無償の愛って、どちらかと言うと親の感情として語られることが多い。
でも自分の子供時代を思い返せば、無償の愛ってむしろ子どもの愛のことなのではないか、と思う。
親がどんな人格でも、どんなに厳しくても、どんな条件を課されても、触れてくれなくても、いじわるされても、子どもの自分は一心に親を愛した。無知だったから、と言われてしまえばそれまでなんだけれど、そのときの心はどこまでも深く、どこまでも寛容だった。
たとえその後、その同じ親を存分に憎んだとしても、子どもの頃に親を愛した記憶は確かに心の中に残っている。たとえ忘れても消えることはない。
その事実はいつか自分自身を温め、肯定し、人を受け容れ愛する能力になる。
***
冒頭に書いたMさんを目の前にして、ぼんやりとそんなことを考えていた(ちゃんと話聞いてたよ)。
実際、現在のMさんはとても優しく、友人に恵まれ、とても良い子だった。ちょっと頑張りすぎるきらいはあるけれど、そのMさんの人の良さ、懐の深さは、この先人生で何があったとしても、彼女を守り続けるのだろうな。